愛してるなんて言葉、
普段の私はいつだってそうだった。言葉、言霊というものを軽々しく見すぎていたのだ。
ひとつひとつのもつコトバの重さを、全くと言ってもいい程これっぽっちも意識などしていなかったのだ(いや、それは現在進行形なのかもしれないが)。だから私は軽々しく人に(この場合は家族でも友人でも恋人でも他人でも、だ)「アリガトウ」も言えるし、「ゴメンナサイ」も言えるし、「カワイイネ」も言えるし、「サイアクダネ」も言えるし、「シンデシマエ」とも言えてしまう訳だ。否、それは何故か?答えは簡単。軽いのだ、何もこもっていないから。そこに感情やら人間の想いというものが全く、こもっていないから軽々しくもそんな人を喜ばせるコトバから、人を傷つけるコトバまで口にできるのだ。私の口からすらすらと。だから本当に感情をこめて伝えたいとき(そうか、私はいつも言うのか。伝えるのではなく)(だから想いの重さが違うのか)(言うことと伝えることの違い)これが本当に相手に伝わっているのか、否、自分のコトバも相手に届いているのかいつも疑問に思う。
それでも私はコトバを使い続けるわけだが、それは人間に与えられたコミュニケーション、自分の気持ちを相手に伝える唯一の手段だから使わなければいけない。
「ねえ、いーちゃん」
「なんだいちゃん」
そして。今、私が一緒にいるこの人は、戯言遣いだ。そう、戯言。コトバを遣う者。
感情のこもっていない声で淡々とこの人は言う。それこそ、人を喜ばせるコトバから、人を傷つけるコトバまで。本人が無意識なのだから仕方がないことだとは思う。この人も大してコトバの重さを理解していない。
コトバはどんなものよりも甘いし、コトバはどんなものよりも鋭い。蜜であり、凶器。それを理解していない。軽々しく口にするだ、愛の囁きから醜い罵声まで。心にも無いことを平気でいう。嘘つきだと言えばいいだろう。
「ううん、何でもないよ」
「そうなの?まあ、ちゃんがそういうんならいいけど」
無意識とは怖いものだ。天然ほど怖いものはないと思う。平気で人を喜ばせ、平気で人を傷つける。ようするに、コトバとは紙一重なのだ。天と地。光と闇。陽と陰。
私はだから、あまりコトバを使わない。自分が分からないんだ、使えるはずが無い。必要なこと以外、本当に伝えたいこと以外は言わないようにしている。だって、恐ろしいから、傷をつけるのが。
「ちゃん」
「なに、いーちゃん」
でも、この人はコトバで自分を護るから。防御壁がコトバでコトダマだから。
だから私は、この人の言うことが全く信じられないでいるのだ。自分が信じていないから。紡がれるコトバは、私には届かない。そう、この人が苦手なタイプだ。干渉できないのだ。
「愛してるよ」
このコトバさえも、私にはしんでしまえと言われているのと同じことになるのだ。
軽々しく口にしないで。
これが本当の戯言コロシ。(20060825)
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