これは呪いだ。

いくら月日が経とうが、いくら歳月が流れようが、鮮明に思い出せてしまう。まるで昨日の事のように。まるで先刻の出来事のように。
目を閉じていても、耳を塞いでいても、息を潜めていても、気配を殺していても、全部がぜんぶ、無意味に終わる。
敵わない。どんな手段を講じても、どんな策略を巡らせても、奇麗にかわされ、始めからなかった事にされて、無に還る。叶わない。
離れてまだ半日も経たないのに、私の意志とは無関係に帰ろうとする両足が憎い。ナイフで切り刻んで動かなくしてしまいたい。
帰りたくないのに。戻りたくないのに。・・・あんな、・・・・・・・・・。はやく・・・あの人の手の届く範囲から、離れなきゃ。
そう思って両足に力を込めてみても、ほんの少ししか効力を持たない。憎たらしい。本当に刻んでしまおうか。くすっ、と乾いた笑いが漏れる。なんと馬鹿らしい。とうとう思考すらも末期になったか。飛び出して来た時はあんなにも考え動けたというのに。


が、回ったか。

身体が、思考が、犯されていった。きっと昔の自分が今の私を見たら、絶句するかもしれない。こんな、身も心も汚れてしまった私に。
呼吸が苦しくなってきた。肺が満たされないもどかしさ。咽喉が張り付くように痛む。荒い息は、残った気力さえも奪っていく。少しでもと、ぼやけた思考で路地に入り、腰を下ろす。ここならば表よりは見つかりにくいかもしれない。一時的に、だけど。


嗚呼、どうしてこんなにも苦しい。嗚呼、どうしてこんなにも胸が痛い。


はぁはぁ、と整わない息。身体はもう疲労していて、立ち上がることすら難しそうだ。これじゃあ逃げられない。
逃げられない?あれ、私はこんな所で何をしているのだろう?はて、私は何がしたかったのだろう?

そんな馬鹿馬鹿しい事を考えているとふと、視界が陰った。ゆっくりとした動作で見上げる。
呼吸が停止した、かのように思われた。


「お前という奴はこんな所にいやがって。ふん、灯台下暗しとはまさにこの事だな」

「・・・あっ・・・・・・きつ、ね・・・さ、・・・っ・・・・・・」


狐面を付けて白装束を身に纏った長身の男が、私を見下ろすように立っていた。否、見下ろしていた。
すっと狐面を取る優雅な動作も、その下から現れた精悍な顔も、私はただ見つめるばかりで逃走する意思はとうの昔に消えていた。
なのに。なぜなのだろう。あそこが嫌で、あの人が嫌で、何回目かも分からない脱走をしてきたというのに!それなのにこの、ざわざわとした感覚。
やめて。お願いだから、そんな。いやだ、いやよ、信じたくない、思い知るのはもう懲り懲りよ!お願いだから!お願い、だから。四肢の全てが求めてるのが分かる。私全体が、欲している。水を得た魚のように、この人を。


「回数重ねるごとに逃走時間が短くなってんじゃねえか。それに、くっくっ・・・・・・。元気よく飛び出していったのはどこのどいつだよ」


嗚呼、やめて。そんな目で私を見ないで。歓喜する、私じゃない私。


「そんな物欲しそうな顔で見やがって。・・・ふん、ちゃんと呼吸出来てんのか?」


嗚呼、やめて。そんな声で囁かないで。もう分かったから。もう、分かったから。
近づく顔になす術もなく、


「んっ・・・、ふっ・・・っ、あ・・・・・・ぅん、っ、はぁっ」

「これで息は整うだろ。半日で呼吸困難にまでなるとは・・・、くくっ、もう駄目だなお前」


だからいやなのに。思い知らされるから。認めたくないのに、欲してしまう自分を抑えられないから。なんて欲深い自分。それでもまだ足りなくて、あとで自己嫌悪に陥るのは目に見えているのに、堕ちていってしまうのはこの呪いのせいか。
座り込んだ私の身体をゆっくりと抱き上げる。それに答えるように、私も首に腕を回す。その行為に狐はにやりと笑んだ。
もう戻れないのは、私もこの人もよく知っている筈なのに、それでも彼は呪いをかける。毒のように私を犯していく呪いを、囁く。


「くっくっく。だから言っただろ。もう俺なしでは生きていけなくなっちまったんだよ、・・・」


依存している。もうこの人なくしては息を吸うことすら出来ない人間に、私はなってしまった。無垢なあの頃には、もう戻れない。呪詛のような歪な愛の言葉。今までも、そしてこれからも言われ続けるのだろう。死ぬまでずっと、永遠に、終わることなく。



終わりが来るその瞬間(とき)まで。




(毎日毎晩囁かれる)(「俺なしでは生きられない」と)(だから私は貴方が居なくなったら)(死ぬのでしょうね)








(20080831)(World Wacky Wreck 様へ提出していたもの)(お疲れさまでした)