さっきからどこか遠くで鳴っている鈴の音だけはやけに鮮明に脳内で響いていたけど、正面に対峙している男が発した言葉の意味が分からずに、私はただ情けない顔で狐面の男を見上げるしかなかった。


「そんな顔をするぐらい、俺に逢えて嬉しいのか?
 …ふん、人が話しかけたら返事をするのが礼儀だろ。出来ないのはこの口か?」


狐面の男は慣れた手つきで面を外した。
その下から現れた顔は、溜め息が出るほど美しく整ってはいるけれど、邪悪に揺れる双眸が台無しにしている。
固まる私をよそに、男は右手ですーっと、私の下唇を撫でた。

そこでようやく私の意識は覚醒した。

慌てて距離を取る。背筋がぶるりと震えた。
すると狐は、行き場をなくした右手をしばらく見つめたあと、その手を自分の口元に持っていき、ちろりと舐めた。
何を、という前に左手を引っ張られた。
突然のことに思わずバランスを崩して、そのまま狐の胸に倒れこんでしまう。
病院での出来事がフラッシュバックして、離れようともがいてもガッチリと抱きしめられていて動けない。
抗議しようと上を向いた刹那だった。


「んっ!?」


キスを、された。
唇が重なったのはほんの少しだったけれど、触れ合った感触は確かに唇に残っていて、狐のあまりにも突然な行動に、一瞬にして頭が真っ白になる。


「くっくっく。俺の口付けがそんなに良かったか? なんならたっぷり、腰が砕けるまでしてやってもいいんだぜ?」


濃厚なのを、と最悪の笑みを再度近づける狐。
私の頭は、突然現れた狐面の男の登場と行為に正常に働いてはいないけど、どうにか狐面の男から顔を逸らす事が出来た。
けれど、きつく抱きしめられているせいで狐からそれ以上離れる事は叶わなかった。
じたばた腕の中でもがいてみても、ビクともしない。見た目は細く見えるのに、なんて力…。
すると頭上から、あの独特の笑いが聞こえた。

ー…遊ばれている。

そう分かった瞬間、私の中で一気にキレた。


「っ、離して! 離してよ!!!
 あなたのせいで…。あなたのせいで、いーが、みんなが、どれ程迷惑してるか分からないの?!
 あなたの独りよがりな望みのせいで、どれだけの人が死んだと思ってるのよ!!!」

「………」

「お前さえ出て来なければ!あんたさえ居なければこんな事にはならなかったのに!みんな幸せに暮らせたのに…。姫も、いたのに…。っ、どうして!」

「………」

「どうして私なの!どうして…こんな事するの…」


悔しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、もう分からなかった。
こんな事言ったところで、今更何も変わらないのはもう分かっているはずなのに、それでも言わないと気がすまなかった。
そんな私を尻目に、たっぷり時間を掛けて、狐は静かに口を開く。


「…気が済んだか?」

「、え?」

「お前の気は済んだかと訊いている」


疑問を口にする前に更に近くなる距離。
耳元に顔を寄せる狐。男の小さな息遣いですら感じ取れる程の距離。
フラッシュバックするあの日の、悪夢。


。よく聞け。お前の脳髄から心に至るお前を構成するすべての物に、俺の言葉を刻み込ませろ」

「っ、や、いや…」

、いい加減駄々をこねるな。こうなる事は最初から決まっていた。
 俺の敵が俺の敵になる事も、あの場所で人が死ぬ事も、お前と俺が出遭う事もすべて、決まっていた」

「ちがう…違う…、そんなの違う! ……やめて…、聞きたくない」

「例え今日この場所でお前と俺が遭わなくても、また明日この場所で遭っているかもしれない。ふん、世の中なんてそんなもんだ。そういう風にこの世界は出来ている」

「違う…違う…そんなことない…。私は、」




顎を掴まれて、無理矢理上を向かされる。唇と唇が触れ合いそうなぐらい近い距離。
狐面の男の鋭い眼光に、すっと体が冷えていくのを感じた。
逃げ出したい。
私を射抜くその瞳から逃げてしまいたい。揺るぎない、恐怖など感じていないその眼が怖くて震える。


「俺と一緒に来い」

「な、に…言って、」

「俺の隣に居ろ。それが、お前の存在意義だ」


そしてまた、私の抗議の言葉は飲み込まれた。
さっきみたいな触れ合うだけの可愛らしいものではなく、荒々しく貪り尽くす、呼吸すらも自分の物にするような、私のすべてを奪い取るように深く口付けられる。
隙間から入り込んだ舌が口内を荒す違和感と、男への嫌悪感から溢れ出した涙が止まらなかった。

たすけてと発する言葉すら飲み下されて、抵抗は容易く抑えられて、思考もぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。
私という存在が狐に塗り替えられていくような錯覚。

しばらくして狐面の男は満足したのか、はたまた飽きたのか、行為を終わりにした。
終わりにされた行為に安堵したのも束の間、狐は私の目尻に溜まった涙をぺろりと舐め取った。

反射的に私は狐面の男の頬を叩いていた。

ぱしん、と乾いた音が路地裏に響き渡る。そのまま震える両手を握り締めた。
一向になんのリアクションもしない狐が怖い。
風鈴の音と私の心臓の鼓動だけがうるさく聴こえる。

恐怖

その感情だけが私を支配していた。


「くっくっく…」


目の前の男は突然笑い出した。
その異常な光景に、私はその場に立ち尽くす。

尚も笑い続ける狐面の男。
しばらくして男は笑うのを止め、静かにこちらに視線を戻した。
男の左頬にうっすらと残る赤い跡に、なぜか居た堪れなくなって私は目を逸らす。

逸らした視線の先には風鈴。
りん、りーんと狐面の男が持っている風鈴が一際大きくなった。
その音が頭に尋常じゃないほどに響いて、私は思わず倒れこむ。
すかさず受け止める目の前の男が憎たらしかったけれど、そんな事を考えさせない程に攻撃をする風鈴の音に意識を手放しそうになる。風鈴が鳴るたびに身体から力が抜けていく。
なにが、起こっているの…?


「くっく…。随分と不思議そうな顔だな」


ぼんやりとした視界。ぼんやりとした思考。
よっ、と言う声が近くから聞こえたかと思えば、次は浮遊感が私を襲った。
どうやら私は狐に抱き上げられたらしいが、身体はすでに言う事を聞かず、ぴくりとも動かない。


「さて、鬼ごっこはもう終わりだ」


ちょいと寝てろよ、と狐はちゅっと額に口付けを落とす。
同時に鳴らされた風鈴に、とうとう私は意識を手放した。







(20100302)