ここはどこなんだろう。
どこまでも真っ暗で、自分の身体すらも見えないのに、なぜだかとても安心する。
このままずっと、ここに居られたら、気持ちいいんだろうなあ…。
思考がどんどん惚けていく。
すると、小さくどこからか声が聴こえた。
「……き…て…下……い」
誰かが、呼んでいる?
「…起き……下さい…」
誰なのか分からないけれど、とても心が満たされていく気分がする。
真っ暗な世界で、とん、と背中を押される。
前のめりになる身体は光に包まれた。
「起きて下さい!!!」
あれ…?もう朝…?
ぱちり、と寝ぼけた思考で目を瞬かすと、私の顔を覗き込んでいる見知らぬ人が。
………だれ…?
と思いつつも、脳が覚醒するまでにはそう時間は掛からなかった。
私の顔を覗き込んでいる人の顔に見覚えがあったからだ。
まさかとは思いながらも恐る恐る上半身を起こす。
慎重に周りを見渡すと、四畳間、畳敷き、裸電球。生活する最低限の物しか置いていない、殺風景すぎる部屋。
どこかレトロな感じでそこがいい。
なんて描写がぱっと思い出せて、思わず冷や汗をかく。
いやいやいや、ちょっと待って…。これは夢だ。そうに違いない。
これは悪い冗談だ。夢見の悪い、気持ちが悪くなる類いの。
そうじゃなければ、こんな。こんな事って…。
どうにも自分の身に起こっている状況が信じられなくて、頬をつねってみた。…痛い。
「あの、すみません」
先程から様子を伺っていた、あの人が声を掛けてきた。
けれど私はいっぱいいっぱいで、どこか冷静に状況を分析しつつも、全身から冷や汗が止まらないでいた。
震える手を握りしめて、その人に向き直る。大丈夫。
「…えっと、なんでしょうか?」
「……名前を、教えてくれませんか?」
「です。えっと、あの、とても不思議なことを言うかもしれないんですけど…、もしかして…、その、いーちゃん…ですか?」
「………。
ちゃん、だね。うん、そうだよ。ぼくはいーちゃんと呼ばれてる」
予感が、確信へと、真実へと、確証へと、変わった。
繋がった。
「本物…ですよね?」
「…本物、と聞かれてしまうのは困りものだけど、ぼく以外をいーちゃんという知り合いには今のところ出会えていないから、本物だと思うよ」
ああ、どうしてこんなことに。
寝る前の自分は確かに、戯言の夢でも見られたらいい、なんて文字通り夢物語的なことを願ってはいたれけど、まさか、本当に。
ちらりともう一度確認するけれど、まごうことなき、戯言遣いのいーちゃんだ。
ああ、もうどうして。
「…ちゃん、ちょっと質問してもいいかな?」
「え!あっ、はい」
「まずは一つ目。どうしてぼくの部屋で寝てたの?」
じっ、と視線を合わせられて、瞳に吸い込まれるような感覚になる。
きっと、この人には言葉で嘘は吐けないのだろうと本能が訴えてくる。
小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせてから、目の前の戯言遣いにしっかりと向き直る。
捨てられないようにと、祈りながら。
「………それが、自分でもよく分からないんです。
私は自分の部屋で寝てたはずなのに、起きたらその、こちらの世界に来てしまったみたいでして…」
「…こちらの世界?
ちゃん、こちらの世界ってのはどういう」
「………。私の予想というかこの状況からというか」
先程から少しずつ感じる心地の悪い違和感を無視して、有り得ないとは思いながらもひとつの仮説を提示する。
「恐らく、私はここではない別な世界からやって来てしまったみたいです」
「…………………。
あの、言いにくいとか気まずいとか、いろいろあるとは思うけど、本当の事を言ってくれないかな?大丈夫、警察に付きだすような事はしないから」
「…っ、信じてもらえないのは分かってます。…でも、だって、私はあなたを知っている!見たことはないけど、知っている部屋に私はどうしてか寝てしまっていて、戯言遣いのあなたが、目の前に居るんです!そんなの、そんなの私のいた世界じゃない…!」
信じてもらえないのなんて分かってた。
だって私が同じ立場だったら、理解しようとすらせずに、頭のおかしい不審人物って思うから。かなしいけど。
けど、これから私はどうすればいいの?
帰る方法も分からないし、そもそも帰れるのかすら分からない。
直面した現実に、急に心細くなる。
込み上げてきた不安から涙が溢れそうになるけど、泣き顔は見られたくなくて慌てて俯くと、その拍子にぽろりと頬に一粒流れた。
「ちょっとからかってみただけだよ」
彼はバツの悪そうな顔をしてこちらを見ている。
座っていても私より高い位置にある彼の顔を見つめ返すと、視線を彷徨わせて頬をかいた。
「本当に異世界とやらからこっちの世界…ぼくらの世界に来ちゃったんだよね?」
「……そう、みたいです…」
「しかもちゃんは、何でこちらに来てしまったのか原因は分からない。そうだね?」
「そうです」
「どうして君はぼくの名前を知ってたのかな?」
「えっと…、それは、……言えません」
「絶対に?」
「…絶対に」
「言わなきゃメイド服を着ろって言っても?」
「(それはかなり嫌だけど…)それでも駄目なんです、ごめんなさい」
だってそれを言っちゃうと、物語が変わってしまうかもしれないから…。
私はこの物語の登場人物じゃないから、干渉してはいけない。干渉してしまったらきっと、私はどうにかしてしまいたくなる。
しばらくの沈黙が流れた後、先に口を開いたのは、戯言遣いの方だった。
「まあ人には、言えないことの一つや二つや三つや四つ、あるものだからね。
それで、ちゃんはこれからどうするつもりなんだい?」
「まだ分からないです。帰れるかどうかも分かりませんし、それまで居るとしても、私には行く当てもありませんし…」
どうしたらいいのだろう?私はどうするべきなのだろう?
また訪れた沈黙に耐えられず、また俯く。なんだか彼に、迷惑ばかり掛けてる。
ぽんぽんと小さな子供をあやすような手つきで、頭を優しく撫でられる。
「だったら、うちに住まない?本当に狭い所だけどさ、二人は暮らせるから。お金も持ってないようだし、行く当てもないなら、ここで暮らせばいい」
彼と二人暮らし。
確かに、想像してたよりも大分狭かったけど、でも他に行く所も今の私には何も無い。
彼に迷惑は掛けたくない。どうにかすれば生きていけるはずだ。けど。
表情を伺おうと顔を上げると、戯言遣いさんは見つめ返してくれた。
それだけなのに、不安が少し和らいだ気がして、涙が引っ込んでいくのが分かる。
彼は私の意思を、聞いてくれている。
最初は疑っていたけど、今はちゃんと聞いてくれている。
わたしは、
「…たくさん迷惑を掛けると思います。でも、その分を恩返ししたいです。
出来ることならなんでもしますので、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね、ちゃん」
かくして、これからいーちゃんとの同居生活が始まる。
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(20050718)