とりあえず、私の持っていたハンカチで応急処置をしてもらい、
(人識が言う話では、ちょっとヤバかったらしい。笑い事じゃないよ、もう…)
そしてそのまま、少し進んだ所にあるコンビニで傷の手当てに必要な物を購入し、近くの公園で手当て中。
これが何とまぁ、


「い、っ!」

「まあ、痛てぇだろうが我慢しろよ」


本当に痛い。我慢出来ないほどの痛みじゃないけど、これは痛い。
涙で視界が滲んできた…。

徐々に痛みに慣れてきた頃、ちらりと、手当てをする殺人鬼の彼を盗み見る。
さっきから私の心の中は、彼と関わってしまったという後悔と、彼に会えて嬉しいという喜びが渦巻いている。
あの時にそのまま走って逃げていれば、私は、彼とこんなに近い距離に居なかったのではないのだろうか。そこまで考えて、自分の馬鹿みたいな妄想に溜め息を吐いた。
仮にそうしていたとしても、逃げたのなら、私は殺されていたのだろう。
この殺人鬼から逃げられる普通の人間なんて、きっと存在しない。


「…そんなに見つめられると、勘違いしちゃいそうになるんだけど?」

「へ?…! や、えと、」

「うそうそ。そんな顔すんなって。それこそ勘違いしちまいそうになる」


卒倒しそうな台詞と共に人識はにやりと笑むと、「ほら、終わりっと」と近づいていた身体を離した。
嬉しいやら、恥ずかしいやら。…天然タラシめ。
好きなキャラとこんなに近くに居られて会話が出来て、さらに触れ合ったり出来るのは夢のようだけれど、それはそれで困りものだと思う。
おそらく赤くなっているだろう頬を両手で隠してお礼を言う。


「いや、元はといえば俺のせいだし、礼はいらねーよ。
 …さてと、俺はそろそろ行きますか」

「ごめんね、留まらせちゃって」

「うんにゃ、いーって事よ。
 じゃあ、お前も気ぃつけて帰れよ。二度と俺みたいな殺人鬼に会うんじゃねーぞ」

「人識みたいな人ならいいけど…、うん、気をつける」


また会いたいのは山々だけど、これ以上は流石に駄目だと思う。
揺らぎそうになる心に叱咤する。

ばいばい、とお互いに手を振り、それぞれの方向に歩き出す。
ああ、もうこんな時間。と腕時計で確認した時、後ろから呼び止める声がしたので振り返る。
すると、別れたはずの人識がずいっと顔を寄せてくる。


「び、っくりした…。どうかしたの? 忘れ物?」

「…いや、俺から生き残れた餞別」


そう言って、人識の顔がさらに近くなったと同時に、唇にふにっとした感覚。


「またどっかで会おーぜ、。俺の事、忘れんなよ?」


呆然としている私を見て、人間失格の彼は心底楽しそうな笑顔を向けて、今度こそ町並みに消えて行った。

冷静になれない頭は、スローモーションに光景を蘇らせる。
近づいて触れた唇の柔らかさと、離れていく私を射抜く闇色の瞳。
(忘れんなよなんて、忘れたくても忘れられるわけないじゃない…!)
さっきなんかとは比べ物にならないぐらいに真っ赤になった顔を抑えて、盛大な溜め息を吐いた。











・・・











あれから熱が収まるまで待って、骨董品アパートに帰ってきた。
階段を上るだけでギシギシと、廊下を歩くだけでミシミシとするアパートの、私といーが住んでいる部屋に入る。
いーはすでにみいこさんと出かけた後らしく、テーブルには置手紙があった。


ちゃんへ。
 少しばかり出かけるから、夕飯はいらないよ。明日には帰って来るから。
 何かあったらみいこさんの所に行くように。お留守番、頼んだよ』


「…なんか、お兄ちゃんみたい」


私の読んだ小説の戯言遣いさんは、もっと暗い、淡々とした薄情者のネガティブなキャラだったのに。
こんな面倒見の良い人だったなんて、知らなかった。
確かに、断片的に書かれた世界だから私の知らない彼が居るのも当たり前だし、私がこの世界に来てしまったことで、変わってしまっているという可能性もないわけじゃない。
だけど、私は、実際にこうして触れ合っている彼のことが、好きになってきている。
ううん、彼だけじゃない。
この世界に来てしまってから触れ合った登場人物のすべて、前よりずっと、好きになっている。


「いー、…いーちゃん。お願い、頑張って、生きて」


心からそう、思えた。いーには、挫けないで欲しいから。

ごろん、と部屋に手足を広げて寝転がる。これで結構、いっぱいいっぱい。
目を瞑る。
私は、いつまでこの世界に居続けるのか、どうするべきなのか。
分からない。
物語を知っていながら、何も出来ないなんて、これじゃ本当の傍観者ではないか。
…違う。
何も出来ないんじゃない。何もしてはいけないんだ。深く、関わってはいけない。
だから、今日のようなことは本当はあってはならないはずだったのに。


「…嬉しいとか、思っちゃってる」


今日の人識の事もそうだけど、でもやっぱりこの『戯言シリーズ』の世界に来られたことが結局のところ何よりも嬉しくてしかたないんだ。
だめだという自分と、楽しんじゃえという自分。
葛藤は常に行われていて、彼が彼女があの人が、話しかけてくれるたびに揺れる。
でも、今回のことで分かってしまった。
私はまだ、この世界に存在してしまいたいと。


「もう少しだけ、もう少しだけ、この物語に存在させてください」


愚かしいと分かっています。罪深いと自覚しています。
止まらないのです。溢れ出した欲望を、止められないのです。


「…お願いです。私のお願いをどうか、おねがい」


どこか遠くで、ぱきん、と破滅の音がした。











・・・











部屋の鍵を開ける。すっかり遅くなってしまった。
部屋に入ったら、ちゃんがパジャマに着替えずに、布団も出さずに眠っていた。
…どうしたのだろう。昨日は疲れてすぐ寝てしまったのだろうか?
靴を脱いでちゃんのもとに近づく。
顔を覗き込むと、頬にはうっすらと涙の痕が残っていた。


「…泣いて、たのかな」


(どうして泣いていたのだろう? ちゃんはあまり泣かない子なのに)
そう思ってから、ふと気がついた。
どうしてそんな事が言える?
ぼくに異世界とやらから来てしまったと言ったあの日は、不安に頬を濡らしてしまったけれど、それ以来はずっと笑っていた。
たまにふと、寂しそうな顔をする時はあったけど、でも弱音はひとつも吐かなかった。
きっと不安で仕方がなかった、はずなのに。


「よく、頑張ったね」


ぼくに心配を掛けさせたくなかった、なんて自惚れ過ぎだろうか。
その透き通るぐらいに真っ白な肌に、綺麗な形をした唇。すらりと伸びた睫に、整った顔立ち。細い腕。
これからも、こんな小さな身体で不安を背負っていくのか。


「正真正銘の戯言だよな」


いつもの逃げ台詞を言いながら、彼女を起こさないように注意しながら、抱きかかえる。
そしてそのまま彼女の隣に寝そべり、目を閉じた。





    

(20050723)