第 参拾弐 話
姫を抱きしめるのを忘れていた。
姫を抱きしめるのを忘れていた。
力いっぱい、私の持っている最大限の両腕の力で、抱きしめるのを忘れていた。
今ならまだ、間に合うだろうか。
今ならまだ、私のこの腕の長さでも、姫に届くことができるだろうか。
*
トイレに行くフリをして、あの部屋から出た。そろそろで、理澄も行動を開始する事だろう。
これから始まってしまうのか。
さっき、いーがお風呂に行ったのはこの目で見ているから、姫もくる。
(先回り・・・・・・してようかな)
待合室を抜けて、玄関を通って外に出た。
山奥ということもあって、星空が異様にきれいだった。それはもう、きれいとしか表現できないぐらいに。
そして――――― 。
姫がすでに待機していた。
先回りなんかじゃ、なくなってしまったじゃないか。
「・・・・・・ですか?一体こんな時間に何やってるですか!
理由によっては姫ちゃん、すっごいすっごい怒りますからね!!!それでなくても、今日はが
留守番のはずでしたのに、ついて来たですし。って、聞いてるですか?!」
すごく胸が、苦しくなった。それはあまりにも痛すぎて、顔をしかめてしまいそうだった。
姫をしばらく見ていないようなそんな、そんな気がしてしまったのだ。
そんな訳があるはずがないのに。春日井さんがいーの部屋に来てからずっと、姫とは一緒に生活してきたのに。
姫はいっつも宿題が終わらなくて、私に訊いてくるんだけど、私も人に教えるのが苦手で、しかも姫に教えるのとか
尚更で、結局はいーに頼るしかなくて、そうやって私も一緒に教えてもらって。
「・・・・・・?」
姫はいーが大好きで、私といーの仲とかいっつも心配、というか気にしてて、それがとても恋する乙女で、
そんな姫に私はいつも、お世話になって養ってもらっているだけだから、と言って、
それでも姫はやっぱり心配してるっぽくて、そんな姫をいつも私がからかってて。そっぽを向いて頬を膨らませて拗ねるんだ。
それを見て笑ってると、姫も一緒になって笑ってくれて。で、その後はまた恋の話に戻るんだ。
私が大体は、いーの好きな食べ物とか趣味とか、そういった情報を教えているだけなんだけど。
それでも姫は、すっごい嬉しそうで。楽しそうで。幸せそうだったんだ。
「・・・、ほんとにどうしたですか?変な物でも食べたですか?お腹に悪いですよ」
いーを見ている時の、いーと遊んでいる時の、そういった時の姫の笑顔が私は1番、大好きなんだよ。
だから、お願い。
「・・・姫。匂宮と闘うのはやめて。お願いだから、殺しあったりなんかしないで」
姫が、息を呑んだのが分かった。
夜で外は暗いけど、月と星の光が、眩しかった。目も、もう慣れていた。
「匂宮は、今回は依頼があって来ただけだから。別にいーを殺しにきたんじゃない。
いーにとっては危なくは、ないよ!だから、殺りあおうだなんてやめて!!!姫が損するだけでしょ!
折角、女子高生になったのに。折角、アパートのみんなと仲良くなれたのに。折角、人を好きになれたのに」
「・・・・・・・・・」
姫が言おうとしている言葉を遮る。
「だから、匂宮は危険じゃないの。姫は、いーを護りたいだけでしょう?
だったら大丈夫だから。約束してくれたから。だから、だから、だから、だから」
「無理なんですよもう。もう、駄目なんです」
「え、」
姫が私に向日葵のような明るい、眩しい笑顔を向ける。
いやだ。その先なんて聞きたくない。私はただ、姫と一緒に、いーと一緒に、あのアパートに帰りたいだけなんだ。
その願いすら、届いてはくれないの?
「なんで・・・、だってまだ何もしてない。無理だって決め付けちゃ」
「無理なんです!!!!!!」
「っ・・・」
「むり、なんですよ。姫ちゃんは、だって姫ちゃんは≪狂戦士≫なんですから」
「あ・・・・・・」
「もう、駄目なんだって、気付いちゃいましたから」
この子の笑顔を、亡くさないでください。お願いですから。この子には笑顔が1番、似合ってるんだから。
悲しい顔なんてさせちゃいけないのに。寂びそうな顔なんてさせちゃいけないのに。辛そうな顔なんてさせちゃいけないのに。
祈ってるだけじゃいけないのは知っている。
「駄目なんかじゃない!!!終わってなんかない!!!!!」
「・・・・・・・・・・」
「まだ、始まってもいない!始まったばかりだ!!!なのに、そんな諦めたような口をきかないで!!!!!
何で始めようとしないの?!!変わっていこうとしないの?!!!なんで!・・・なんで無理とか言うの・・・」
涙が零れ落ちそうだった。
声が涸れ果ててしまいそうだった。
「行かせない。殺させない。姫は、生きてもいいんだよ?誰も、責めたりなんて、しないよ?」
「・・・、姫ちゃんは、もう・・・・・・・・」
「私は、姫が大好きだよ」
姫の前に立って、姫の腕を掴もうとした。掴もうと、した。
どすっという鈍い音と共に、私の体は崩れ落ちた。
「・・ひ・・・め・・・・・・」
「、ごめんなさいです。
、姫ちゃんもが大好きです。すっごいすっごい大好きです。・・・大好き、です」
「な、かない・・・で・・・・・ひ、め」
「、ありがとです。すきって言ってくれて、姫ちゃん、すっごい嬉しかったです。
ごめんなさい、だいすきです、ありがとう・・・・・さよならです」
薄れていく意識の中で、姫の泣き顔と姫の泣き声が頭の中で繰り返されていた。
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修正(20060921)